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最近読んだ本 「ピアニスト」



最近読んだ本が「ピアニスト」。
この本のモデルになっているのが、あのユジャ・ワンと知り、とても興味が沸き手にしました。

エティエンヌ・バリリエというフランスの男性作家が書いた作品で、2人の(ヨーロッパ人)音楽評論家が中国人の女性ピアニスト(メイ・ジン)の演奏をめぐってネット(ブログとメールのやりとり)で激論を戦わせるという内容です。

登場する2人の評論家のうち、一人の年配の評論家は(著者曰く)理想主義者。
彼女の演奏を「奇跡」と評し、好意的に評価しています。

かたや若い評論家は、懐疑的な考えを持っており、東洋のピアニストが、ヨーロッパ人のように(クラシック)音楽を理解することはできないし、理解しようともしていない、と言い切ります。

2人の争点は、ヨーロッパのクラシック音楽が普遍的な価値を持っているか否かということ。

彼らのやりとりの文章はかなり哲学的で譬喩も多く、(正直)クラシック音楽に造詣が深くないと読み進むのは困難な気がしました。
裏をかえせば、古今のピアニストや作曲家についてある程度知識や教養のある人には、知的興味の尽きない本と言えるかもしれません。

原題は「Piano chinois - Duel autor d'un recital」 (Etienne Barilier)
(直訳すれば中国人ピアニストでしょうか。)

そもそも、バリリエがこの本を著すきっかけとなったのは、
中国、韓国、日本といった(極東の)国々でヨーロッパのクラシック音楽がごく自然に、ありのままの姿で愛好されていることを知り、驚嘆(感動)したことが動機になっています。

巻末に、著者が日本で行った講演会での言葉が掲載されているのですが、アニメ『のだめカンタービレ』、村上春樹の『スプートニクの恋人』、小川洋子の『やさしい訴え』などの作品から、強烈なインスパイアを受けたと述べています。

もしかしたら、そもそもの発祥のヨーロッパ以上にヨーロッパのクラシック音楽が生活や日常に存在している...
そういう危惧をも感じたのかもしれません。
私たち(日本人)にはない発想ですが。

彼は、ユジャ・ワンの演奏をスイスとフランスで2度聴いているそうで、
その時見聴きした体験を描写していると思われる箇所が随所にあり、
(実際に私も2度演奏会を聴いたことがあるので)読み物としても楽しめました。

ストラヴィンスキーのペトリューシュカを演奏している時の表情について、こんな表現を用いています。

以下引用
『テクニックの困難さを克服して、この若いピアニストがどうやってあのような力を抜いた顔つきを保ち、落ち着いて唇を半開きにしたまま演奏できるのか不思議だ。かの熟練のワイセンベルグでされ、この曲を弾く時は真剣でとげとげしい様子を見せたものだ。まさに「奮闘努力せよ」だ!メイ・ジンの方は、むしろ「笑う門には福来る!」か。』


登場する老評論家=バリリエ自身?と思わせます。

また、演奏曲(スカルラッティ ソナタK87、ショパンのピアノソナタ第2番「葬送」)についての分析も面白い。
バリリエ自身が音楽関連の著作や受賞を受けていることからも、かなりクラシックについて勉強していることが窺われます。

話しをもとに戻しますが...
この本は、クラシック音楽がなぜこれほどまでに私たちに浸透しているのか?ということについて、あらためて考えるきっかけをもらった気がします。
日本の古典音楽を口ずさむことはできなくても、ショパンの子犬のワルツを聴いたことの無い日本人はおそらく一人もいないでしょう。
そういう意味では、全てではないにせよクラシックはすでに普遍的な価値を得ているのではないか。
また、近代のピアニストは、偉大な作曲家たちの忠実な表現者から、創造者にTransformしてきているのではないか?とさえ思うのです。

奥泉 光 「シューマンの指」

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久しぶりにハードカバーの本を読んでみたくなり、本屋で
吸い寄せられるように手に取ったのが
奥泉 光の「シューマンの指」。

装丁から何かピンとくる感じ

帯の青字

指を失ったはずのピアニストが、
なぜ、シューマンのコンチェルトを弾いているのか?

ラスト20ページに
待ち受ける、
未体験の衝撃と恍惚ー。


大反響!話題沸騰の音楽ミステリ


わくわくさせてくれそうな展開が期待できそうで、
血痕のついた血なまぐさいデザインは、
暑い夏にぴったりの1冊と判断。

というわけで、私にしては珍しくミステリーなんぞ読んでみたわけです。

ミステリーなので、殺人事件があり、思いがけない展開があり...
ストーリーも面白く!?仕上がっているのですが、
何より、シューマンについての考察が読み応えたっぷりです。

クラシック好きでないと、正直読むのはつらいかもです。
世代的にもそう遠からず、主人公と似たようなピアノ教育を受けた体験上、
共感するところもけっこうあり、思わず(マルデ・アルゲリッチには)笑ってしまう場面も...。

若き天才ピアニスト永嶺修人と
T音大のピアノ科受験を目指す里橋優の2人が交わす
音楽談義は興味深く、読者にとって魅力的なものになっています。

この永嶺修人は、大のシューマン贔屓ということで、
シューマンのピアノ曲が随所に出てきます。

たとえば、シューマンのピアノコンチェルトについて、こんな会話があります。

 アルフレッド・コルトーは、シューマンのコンチェルトの冒頭をきわめて遅いテンポで弾く。はじめてFM放送で聴いたときには驚いた。全体にゆったりした、斬りつけるようなところが一つもない、肌理細かく配慮の行き届いた演奏に、魅力を感じなかったのではないけれど、高校生の私は、再デビューしたマウリツィオ・ポリーニの正確無比な演奏ぶりに度肝をぬかれていたこともあり、コルトーはなんだか甘たるく、ミスタッチが多いことも含め、感心できなかったと、永嶺修人に向かって感想を述べたのを覚えている。

これを読む限り、コルトーのコンチェルトを聴いてみたいと思わない訳はないのです。

そして、ある夜殺人事件が起きます。
その直前に永嶺修人が弾いていたのがシューマンの「幻想曲」Op.17。

この曲の考察は、各楽章毎に数ページが割かれ、丁寧に書かれています。
第1楽章についてこんな記述があります。

 渓谷を渡る気流を想わせるアルペジオに運ばれ滑空する第一主題の旋律ーその核になるAからDまで下降する五つの音は、かつて《ダヴィッド同盟舞曲集》の楽譜を前にした修人が、「僕は、この音符の陰に、何かが隠れているような機がするんだ」と述べた、シューマンのピアノ曲に執拗に現れる音列である。「クララの動機」とも呼ばれるこの楽句が、調性をぼやかしたまま進み行く姿は、さながら夢の霞が凝ってできた瑞雲から飛び出した一羽の鳥のようである。

余談ですが、「クララの動機」について...
 シューマンの愛妻クララの名前から得たテーマで、ドレミで言うところのドーシーラーラがそれで、色々な曲に使われています。
調べてみると、シューマンは妻クララ(Clara)をキアラ(クララのイタリア語名Chiara)と呼んでいたようで、
分解するとC-H-A-Aとなり、ツェー(ド)、ハー(シ)、アー(ラ)、アー(ラ)となり、音の隠し文字となっているのです。
ピアノコンチェルトの第1楽章冒頭は、妻の名を呼ぶところから始まる、
なんとも甘く切ない主題なのです。ピアノソナタ3番の冒頭にも使われています。

さて、読み進むと、物語途中でシューマンの「ダヴィッド同盟」から着想を得た仲間3人が音楽批評雑誌を始めます。
ダヴィッド同盟とは、シューマンが考案した空想の団体で、保守的な考えに固執した古い芸術を打ち破るために戦って行く人の集まりなのだとか。シューマン自身の二面性をそれぞれ擬人化した、フロレスタンとオイゼビウスが中心人物となっています。
私は、このダヴィッド同盟が実はこの物語を読み解くキーかな?と思っていたところ...
あとは読んでのお楽しみ。

本書を通じて、全体的にシューマンをさほど好きではない私ですら、幻想曲をはじめ登場する曲の数々、「交響的練習曲 Op.13」、「クライスレリアーナ Op.16」、「ピアノソナタ3番 Op.14」、「フモレスケ Op.20」、「トッカータ Op.7」をこの機会に聴きたくなりました。(ちなみに、シューマンのピアノコンチェルトは3大名曲コンチェルトの一つと思っています。)

ネットでこの本の書評をいくつか読み、
ミステリーとしての評価はさまざまなようですが、
シューマンを愛する著者(おそらく)が研究し尽くして描いた
緻密な人物設定や背景や、文章の美しさは大変魅力的な作品との感想です。


次も、クラカテの本を探したいと思います。
大島真寿美の「ピエタ」はなかなか面白そうですね。

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